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書影

近江・坂本の町屋 旧岡本家解体記 解体から再生へ

須藤 護 / 横田 雅美
A5 240 ページ
ISBN 9784883258314 Cコード 21
刊行年月日:情報取得中
書店販売日:2025/3/3
本体価格:2300
税込価格:2,530
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内容紹介
2023年3月、滋賀県大津市坂本の目抜き通りにある町屋が、道路拡幅の影響で解体された。町屋は明治から現在に至るまで用いられた建築物であり、昭和10年代には滋賀銀行坂本出張所として用いられたこともある。その解体の過程を通して町屋の発展・進化と職人の技術や道具などについても考察をおこない、町屋を形成した人々の足跡を追う。
目次
はじめに
第1章 旧岡本家の解体
1 旧岡本家の概要
2 解体の作法
3 解体の手順
4 古井戸と便壺に対する配慮
第2章 町屋の外観を構成する要素
1 近江坂本の町並
2 町屋の外観を構成する装置と部品
3 土壁、漆喰、弁柄
4 切妻屋根と桟瓦
第3章 建築の規格化と町屋の進化
1 町家を成立させた要素
2 建築の規格化と町屋の進化
3 建材、建具等の規格化
4 間仕切りと建具の普及
5 建材の加工と工具
第4章 町屋を支えてきた人びと
1 町屋が創り出した景観
2 正確な職人の仕事
3 日本は造形の国である

解体から再生へ―職人としての生き方に教えられて―   横田雅美
おわりに
主な参考文献
前書きなど
はじめに
長い歴史をかさねてきた古い町には店舗や仕事場を兼ねた町屋とよばれる住居が建ち並んでいる。その景観は木造建築の特性を存分に生かし、日本特有の美しい町並みを形成してきた。
今日においても、京都や小京都とよばれる町にはそのような景観が残されているが、生活の近代化(合理化)と維持管理の難しさにともない、減少を続けているのが実態である。このようなことが言われるようになって久しい。
令和5(2023)年3月、滋賀県大津市坂本の町の一角に存在していた町屋が、長年の役目を終えて解体される時を迎えていた。本書をまとめてみたいと考えたきっかけは、この町屋が解体される過程を見学する機会を得たことであった。さらにはこの町屋にたいして深い愛着を感じていたこと、そして解体される最後の段階まで見とどけることで、今日まで存在してくれた町屋に対して感謝の意を表すことができるのではないか、という思いがあった。解体に至るまでの経過はあとがきで記してみたい。
この町屋の建て主は岡本平次郎という人であった。あるいは平次郎氏の御尊父であったかもしれないが、残念なことに岡本家と町屋に関わる情報は非常に少ない。しかしながら、この町屋自体が発信してくれた情報はたいへん豊かなものであって、解体現場に立てたことはとても有意義であり教えられることが多かった。
さて、岡本平次郎氏の住まいは大津市坂本の井神通りに面していた。井神通りは全国に鎮座する日吉神社・日枝神社の総本宮として知られる日吉大社を起点に、びわ湖に向かってまっすぐ東西に伸びた道である。日吉馬場ともよばれ、神社の背後には比叡山が連なっている。岡本家の建築年代は、床の間の框の裏側に「川原町久保(久條?)菊之助 明治33年7月」という墨書が見え、また神棚の裏側に明治35年という墨書が残っているので、このころ竣工したのであろう。明治33年は西暦で1900年、35年は1902年にあたる。古民家とよぶにふさわしい堂々たる風格の町屋であった。
岡本家は明治35年当時、大津市の中心地であった浜大津で材木商を営んでいたと伝えられている。岡本家と坂本との関係、また材木商としての創業年代や営業の実態、廃業した年代など、この家がたどってきた歴史は明らかではない。しかし浜大津には湖水が入り込む入江が形成された一角があり、びわ湖を渡ってくる船の荷上場として機能していた時代が続いたことは知られている。この入江を金蔵関、または大浜とも呼んでいたことから、古くから大いに栄えた港であったことがうかがえる。
岡本家は、浜大津という商業活動にもっとも適した繁華な土地を拠点にして材木商を営んでいた家であり、その一方で坂本に規模の大きな町屋を構えていたことから、富裕な商家であったとみるのが自然であろう。
次に岡本家が商業活動の拠点としていた浜大津と、生活の場としていた坂本がどのような地域であったのか、地域の特性について概略を記してみたい。今日浜大津とよばれている地域は、橋本町、湊町、御蔵町、中ノ浜町、蔵橋町、川口町、東・西今颪町、今堀町、水揚町といった旧町名が名を連ねており、昭和42(1967)年に大津市と合併している。旧町名からも港町として、また商業の町としての機能を持った町であったことがわかる。
その一方で浜大津を中心とした一帯は信仰の場としても知られた地域であった。浜大津からびわ湖の西側に位置する坂本にかけて、園城寺(三井寺)、近江神宮、志賀八幡宮、盛安寺、日吉大社、延暦寺、西教寺等の大寺院と著名な神社が立地している。またびわ湖から流れ出る唯一の河川である瀬田川に沿って右岸には石山寺、立木観音堂が立地し、左岸には建部大社が鎮座している。つまり浜大津は交通、流通の中心地であったばかりでなく、近隣に著名な神社仏閣をひかえた信仰の領域であった。
明治以降、湖上交通は蒸気船の時代を迎え、湖上交通もスピード化がはかられる時代になった。明治23年には浜大津の北に位置する三井寺下から京都蹴上間に疎水工事が完成し、大津に集荷された物資が疎水を通して京都に運ばれることになった。また疎水の落差を利用して水力発電が行なわれ、この電力を利用して京都市内に市街電車が走行できるようになった(竹内ほか1979)。江戸時代以前から明治時代にかけて、浜大津は活気のある港町、商業の町として機能していたのである。
その後次第に陸上交通への転換が進んでいくが、陸上交通時代に入っても引き続き浜大津は中心的役割を果たすことになった。町の中央には国道がはしり、大津港のすぐ上手には大津と京都三条を結ぶ京阪京津線、そして坂本(延暦寺・日吉大社)と石山(石山寺)を結ぶ石坂線が乗り入れし、その中心である浜大津駅が人びとの足を支えている。そのすぐ北方にはやはり人びとの足となるバスのターミナルが設置された。
浜大津は今日なお大津の経済、通信、観光の拠点であるといっていい。滋賀銀行本店、みずほ銀行大津支店、京都信用金庫大津支店、朝日生命大津支店、大津電報電話局、そのほかホテルや各種企業が集まり、また観光を目的として整備された大津港は大型遊覧船の運行があり、ヨットハーバーなども整備されて賑わいをみせている。
現在下阪本で製材所と建設業を経営されている森江康平氏(1946年生)によると、浜大津に5軒、坂本には6軒の材木商と製材所があったという。つまり浜大津から坂本までの間、10㎞ほどの間に11軒もの材木を取り扱う業者が営業していたことになる。岡本家はその1軒であり、もっとも湖に近い場所に店を構えて著名な寺社仏閣や町屋の木材需要に対応していたようである。しかしながら木材不況のさなか、また建築工法の変化ととも、森江家経営の製材所以外の業者の多くは廃業に追い込まれていった。その中に岡本家も含まれていたようである。
先に記した神社仏閣は、東山山地から比叡山地に続く山並を背後に控えて、広大な山林を所有していた。その代表が延暦寺であり、その領域は南は滋賀里から北は仰木まで10㎞あまりの距離になる。しかもこの山林は滋賀県側と京都をまたがって続いている。延暦寺は三塔十六谷とよばれる山域に数多くの堂坊を抱えており、その建築材や屋根材、土木用材として良質な建築材やそのほかの樹木を大量に必要としていたのである。この地域に材木商、製材所が多い理由の一つは、寺社がもつ広大な山林の管理、伐採・搬出、製材等の作業を業者が請け負っていたからであった。
旧岡本家は滋賀銀行坂本出張所として使用されていた時代があった。坂本に在住し、現在80歳をこえた人であればその時代を記憶している人は少なくない。その時代は昭和10年代から20年代のことであったようである。
滋賀銀行は明治14(1881)年に犬上郡彦根町(現彦根市)に設立された百三十三銀行と、蒲生郡八幡町(現近江八幡市)に設立された八幡銀行が合併して誕生した銀行である。昭和8(1933)年であった。
彦根は井伊家の居城であった彦根城をひかえた地域で、湖東地方の政治、経済の中心地であった。また近江八幡は近世初期に城下町として整備されたが、後に八幡掘という水路を活用して変貌した商業の町であった。多くの近江商人を輩出した町として知られている。いずれの町もびわ湖の東岸に位置しており、南岸に位置する浜大津と同様商業活動が活発に展開された地域であった。
なお滋賀銀行本店の所在地は彦根でもなく近江八幡でもなかった。滋賀県を代表とする銀行が選んだ地域は浜大津であった。興味を惹かれる事実である。
『滋賀銀行五十年史』によると、滋賀銀行の前身である八幡銀行の前身は、大津に本拠をおく大津銀行であった。明治13(1880)年の記事に「大津銀行支店、株主三十二名、一株百十二10円、(二月)二十一日旧船橋家開業」とある。大津銀行八幡支店のことで、明治13年2月21日に八幡仲屋町の旧船橋家を店舗にしていたことが記されている。明治時代に設立された銀行が一時的に民家を借用、もしくは購入していた事例は少なくなかったようである。その後明治15年に八幡銀行が誕生すると本店を八幡小幡町に置いている。借家住まいから新たな本社屋を建築したものと思う。八幡は現在の近江八幡市である。
滋賀銀行が開業したのは昭和8年10月2日であった。それよりも3カ月ほど前の7月7日付の記事に「合併時各店別預金・貸出金状況」という一覧表が載っている。その中に坂本出張所という欄がみえている。滋賀銀行開業3カ月前の資料であるから、坂本出張所は合併前の八幡銀行の出張所ということになり、その店舗が旧岡本家であったとすると、昭和8年以前から八幡銀行の出張所として旧岡本家が使用され、滋賀銀行出張所として引き継がれたことになる。
旧船橋家を店舗にしていた大津銀行八幡出張所の事例を思い起こしてみると、旧岡本家が出張所として使用されていたことは十分考えられることである。さらに昭和8年の合併契約書の中の覚書として、「本店坂本出張所 滋賀県滋賀郡坂本村」とあって、坂本出張所が八幡銀行から滋賀銀行の管理に移ったことが明記されている。
現在旧岡本家の近所に住んでいる大澤久子さん(1943年生)によると、祖父(大澤粂吉・明治18〈1885〉年生)が滋賀銀行坂本出張所の経営に尽力した人であったという。久子さんが5歳の頃であったというから、戦後間もなくのことで、道路に面した土間部分と玄関ホールとして使用していた板の間と八畳の和室を出張所として使用していた。
その当時八畳の和室は板の間であって土間と玄関ホールの間にカウンターが設けられていた。事務スペースは約七坪(十二畳)、お客さんのスペースは四坪(八畳)ほどになる。用務員のような人もいて、店はいつもきれいに清掃されていたという。今から20年あまり前のことであるが、この家の改修をした際に床下に石を積み上げた頑丈な台のようなものが造られていた。
大きな金庫を置いた跡ではないかとのことであった。自然石ではなく明らかに構築されたものであった。
正確な年代はわからないが、この家が滋賀銀行の出張所として使用されていた時期に、岡本氏は三井寺の近くに移り屋敷を構えていたようで、久子さんは祖父に連れられて何度も岡本家の座敷で遊んだことがあったという。小さかった頃の話であり、座敷が非常に広かったことと床が高かったことがつよく印象に残っているという。座敷は十二畳の広さで、北側の襖を開けると六畳の和室とつながっている。
庭には縁の近くに手水鉢が据えられ、さらに蹲踞が据えられていて、石の鉢が載せられていたこと、蹲踞の近くには小さな池が掘られていたこと、庭先にはハランという草が植えられていたことも話してくれた。ハランは料理に添える植物であるという。また土間と通りニワの境に猿戸が設けられていて、その奥に井戸が掘られていたことも記憶されていた。猿戸(後述)は現在も保存されている。
旧岡本家の広い座敷は銀行のサロンのような役割を果たしていた。滋賀銀行と関係が深い坂本や下阪本の旦那衆がよく利用していたようであった。そのうち10名ほどの名前をあげてくれたが、これら旦那衆は大口の預金者であり、坂本出張所を支えていた人びとであったであろう。大澤粂吉さんは教養人であって、これらの人びとと対等に話し合い、また碁を打つなどして接客していたようである。比叡山高校の第1期、もしくは第2期の卒業生で、英語も流暢に話せる人であったという。
大澤久子さんは解体する前に一度座敷を見てみておきたかったが、それがかなわずとても残念であったと当時を懐かしがった。坂本に住んで、旧岡本家のことを記憶している人びとの多くは、同じような思いを抱いているであろう。解体の期間中に覗きに来る人、通りがかりに足を止める人はとても多かった。
昭和20年前後には岡本家は坂本を引き払っていた形跡があり、その後の足跡を辿ることができないでいる。ただ一点だけ確実な事実があった。坂本の井神通りのほぼ中程に日吉御田神社が鎮座しているが、平次郎氏はこの神社の氏子として神社を支えていた。その痕跡が坂本の日吉御田神社の境内に設置された石碑に残されている。その石碑の前面には、「大津市岡本平次郎 一金百萬円」、裏面には、「昭和四十六年、保存資金 一金五拾萬円 岡本平次郎」と刻まれている。合計150万円という金額は、当時としては大金の部類に入るであろう。
毎年5月2日、3日、4日は、日吉御田神社の春の例祭にあたるのであるが、本祭りの日である3日は神輿を神前に曳き出して飾り付けをする。そして神さまを移した後、町内を渡御するのであるが、この神輿の修理、鳳凰、蕨手、鈴、飾り幕などは、岡本氏の寄付金で購入していた。最終日の4日には氏子衆が神輿の装飾をはずし神輿蔵に納めるのであるが、飾り物を納める箱の裏書きに「昭和46年4月吉日、岡本平次郎氏寄進により修復す」と記されていることでわかる。神輿の修復と共に飾り物も新調しているのである。
神輿を修復したこの年(昭和46〈1971〉年)、日吉御田神社の神輿は三井寺地区に居住していた岡本氏の家の前まで渡御した。もちろん長年にわたる善意に対して感謝の意味を込めてのことであった。このとき平次郎氏は涙を流して喜んでくれたと伝えられている。
また坂本では8月23日に各町内で地蔵盆が行なわれるが、その際に使用する大型の屋台も平次郎氏の寄贈によるものであった。地蔵盆の前日、組の男性たちが神社の倉庫から屋台の部材を境内に持ち出し、境内に屋台を組み立てる姿が長らく続いていた。現在(令和5〈2023〉年)から換算すると50年あまり前になるのだが、岡本家はこの時代まで坂本の町との太い絆を保っていたことになる。
一方、滋賀銀行坂本支店は、その後井神通りをさらに下った地点に社屋を建設し、今日営業を続けている。この事例を別の視点からみると、町屋は単に居住するだけの建物ではなく、商業活動に十分対応できる建物であったことを教えてくれるたいへん興味深い事例であろう。
著者プロフィール
1945年、千葉県生まれ。武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。近畿日本
ツーリスト(株)日本観光文化研究所々員、龍谷大学教授を経て現在民俗文化財保護事業と地域研究に従事。民俗学専攻。
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